まちけん新聞  10周年記念

まちけんの活動が10年経ちました。

 まちけん新聞は平成12年に刊行され、望月の各家庭に届けられました。

 ここでも載せておきます。

 まちけん新聞pdf判


下記には、新聞の中身の記事を抜粋して載せます。

口上

 平安時代、都に献上された駿馬「望月の駒」を育てた古代の牧や、甲賀三郎伝説ゆかりの中世城郭「望月城」、江戸から25 番目の中山道宿場として栄えた頃の町並みなど、繭の集散地として栄えた近世• 近代まで時代を超えた独特の融合が現在の町並みに先人の遺産として残されている望月。

 さらには2000 体もの石仏が暮らしの守り神として祭られてきた素朴な地域の生活文化まで、失ってはならない宝が多数あります。

 このような伝統、文化が失われることなく、次世代に持続可能なまちづくりを提案実践できるよう、幅広い分野の人の参加のもと特定非営利活動法人を設立し活動しています。

古えの望月 大正~昭和初期の
養蚕と生糸業 簾田 泉(語り)

 農家が営む養蚕と薬用人参栽培は、大正〜昭和初期の文明改革のなかで盛んになり、川西地方の活気に満ちた産業として、周辺地域にも知れ渡っていた。

 農業関係者の現金収入が、望月の地域経済を支える源になっていた。
 資源の乏しい日本にとって絹製品は、国際的商品として価値が高く横浜港の貿易記録では、輸出金額の87%が生糸であったといわれ、なかでも長野県の生産が全国1位であったという。

 望月にも県下で絹糸産業が特に盛んだった岡谷、諏訪、丸子方面から数多くの仲買人が集まり、農家の繭を仲介する会社も設立され、川西地区を中心としてこれをを買った。
 
 また望月でも、生糸を作る「三盛社」、「入吾」などの屋号の製糸業者が隆盛を誇っていた。糸をとる機械の動力は、水力や蒸気力であり、女工や職工の労働時間は毎日12時間を超えていたという。

 その当時、繭1貫匁(3•75キログラム)当たりが12円。約5円だった東京~小諸間の旅費と比べても2倍以上だったから、農産業の生産意欲は高まっていたようで、川西地区の中心的産業となって活気に満ちていたようだ。

 それに付随して、娯楽の殿堂で芝居や映画が上演された「川西座」をはじめ、呉服屋、料理屋、小間物屋、金物店などが本牧地区に連なり、多数の農家が買い物や仕事の息抜きに訪れた。夜店なども金内町は1日、6日、神田町と東町は3日、8日、栄町は5日、10日という具合に、定期的に開催されていた。

 榊祭り、恵比寿講、草競馬など、地域の催しのたび各商店の意気も盛り上がっていた事だろう。

 冒頭に掲載の写真から読み取れると思うが、料芸組合があって芸者置屋もあった。従事する女性らが常時40~50人はいた様子で、塩名田や長久保に次ぐ規模で、公募の歌詞を編纂し望月小唄が生まれたという事からも、望月の里がいかに活力ある土地だったかが偲ばれる。


この写真は、現存する井出野屋旅館前で撮られたもの


 豊川稲荷前の当時の集合写真には、古印体で「三日月庵」と岩肌に記されていて、その下の石碑には「三日月と なりて しらるる はじめかな」という句がある。当時のまちおこしといえる活動していた集団によって建立されたものと思われる。



 地道な活動を「三日月と成って初めてその存在に気付いてもらえる」という様な思いを表していると解釈していいように思う。当時まちづくりに真剣に取り組む組織があり活躍していたように、時代を超え今、自分たちがまちづくりに取り組んでいる事実を考えるとき、昔の人たちの思いに共感を覚える。

西行と望月と桜


 平安時代末期、信州望月氏の治める領地の寺に歌人で知られる西行法師が3年間逗留したという。西行は花と望月にまつわる歌も残している。
 
 また、鎌倉で源頼朝に流鏑馬の作法を講義し、翌年から鶴岡八幡宮で流鏑馬が行われた。我らが望月三郎も流鏑馬の射手を務めた。現在においても神事として続いている。激動の平安時代末期から鎌倉時代初めに生きた西行とは何者なのか?

「西行とは」

出家前の名は佐藤義清(のりきよ)という。藤原鎌足の流れで、平将門(たいら
のまさかど)を討った鎮守府将軍、藤原秀郷(ひでさと)の嫡流九代目。平安時代末期から鎌倉時代初期の武士、僧侶、歌人である。当初は鳥羽上皇に仕えた北面の武士だった。これは上皇院を警護する役目の武士で、武力に秀で、弓術、馬術、詩文、和歌、管弦などにも優れ、容姿端麗という条件をクリアしなければならなかった。裕福な豪族の子息であることはいうまでもない。他の武士と違い、官位があり超エリート武士であった。

 平清盛が北面の武士の同僚で、同年だった。それが突然、23歳のときに出家してしまった。このとき妻子もいた。後のことは弟に託してしまった。 理由は分らないが、ともかく世に無常を感じて出家したらしい。

「西行が信州望月に来た経緯」

 西行は天養元年(1144)27歳の頃、1回目の東国への旅をし陸奥、出羽を巡った。修行と歌枕を訪ねることがその目的ではなかったろうか。
 その途中、3年間も信濃国北佐久郡布引山釈尊寺に逗留している。釈尊寺の縁起書の中に、 『寺は聖武の御時に、僧の行基が開基より、西行法師も三年へて、晒す御歌を残しけり』とある。

「三年へて折りおりさらす布引をけふ立ちそめていつか来て見ん」

「望月のみ牧の駒は寒からじ布引く山を北と思へば」

※布引山釈尊寺において、 西行の作歌と伝わる。
信州の逗留は帰路の途中であったろう。釈尊寺の地は、もと滋野庄、御牧七郷のひとつ山浦村といった。民話「望月の駒」の中で、月毛の駒も駆「け抜けていった場所だ。その御牧七郷を治めていたのが望月氏。3年も滞在したなら望月氏とも文武の交流があったのではないだろうか?

 元北面の武士の西行から、武術、弓馬の奥義などを望月一族で共有するために伝授されたであろうことは想像に難くない。領主の望月氏も勅旨牧である望月牧の牧監(ぼくげん)であり毎年、京へ望月の駒を引き連れて行き、8月15日望月(満月)に紫宸殿の天皇の御前で献上する役目である。地位は国守に準じ把杓(はしゃく)を許されていたので北面の武士を十分認識していたと思われる。その後、西行は32歳の頃の久安5年(1149) 、真言宗総本山の高野山に入り、以後30年、同山を根拠地とした。

62歳のとき、源平争乱の最中伊勢に移住、二見浦の山中に庵居した。


「二度目の東国への旅」

 治承4年12月(1181)の兵火により、東大寺大仏殿が焼け落ちた。その再建の勧進のため文治2年(1186) 、69歳での陸奥へと旅立った。
 平家が滅亡した翌年である。 勧進責任者の重源 (ちょうげん) 上人の依頼を受け、 奥州の藤原秀衡 (ひでひら)から砂金勧進するのが目的だった。旅の途中、鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮境内で源頼朝に会った。その様子が鎌倉幕府の出来事を記した歴史書「吾妻鏡」に書かれている。

 抜粋要約し紹介すると、 『文治2年8月15日、頼朝が鶴岡宮に参詣したとき、老僧が一人鳥居の辺に徘徊しており怪しみ、家臣に名を聞かせたところ、佐藤兵衛尉憲清法師、今は西行と号すと名乗った。頼朝は和歌のことを談じたいと、屋敷に呼び歌道や弓馬のことについて夜更けまで講義を受けた。弓馬については詳細に話し、書記の俊兼に書き留めさせた。8月16日午の刻に西行退出。

 頼朝が引き止めたが、重源上人の約諾を請け、東大寺料の砂金を勧進するため奥州へ赴く。陸奥守の藤原秀衡入道は、西行上人の一族なりとのことだった』 。
 と、平泉への勧進が西行に白羽の矢が立った理由も分かる。この頃は奥州陸奥の国が砂金の産地であったそうだ。平泉の中尊寺金色堂に代表される黄金文化も花開いた。こうして西行は平泉へ向かい10月12日に到着。西行は同族で旧知の藤原秀衡に会い存分に語り合うことができただろう。
 
 翌文治3年(1187)2月、平泉の秀衡のもとに頼朝から追われた源義経が落ちのびた。西行とは入れ違いのようだ。西行は奥州より帰り、しばらく京都嵯峨に草庵を結ぶ。同年8月15日鶴岡八幡宮の例大祭において、初めての流鏑馬が行われる。これは前年の西行の指導によるものであろう。同年10月、 秀衡が病没。

 文治5年(1189)4月、義経は藤原秦衡に討たれ、9月に秦衡が頼朝に攻められ奥州藤原氏は滅びた。


「西行の死」

文治5年(1189) 、大阪東部の河内国弘川寺に草庵を結んだ。翌6年 (1190) 2月16日、弘川寺で西行は73歳で没した。

「願わくは花の下にて春死なむその如月(きさらぎ)の望月の頃」

この西行の歌はいつ詠まれたか不明だが、如月の望月の頃とは旧暦2月15日満月の日。2月15日は釈迦の命日である。西行の死と1日しか違わない。太陽暦の3月7日なので、 歌にある 「花」 とは、3月下旬から4月上旬に咲くいずれかの桜とも考えられる。花に赤みを帯びた寒緋桜か、他にも春咲く花はあるので断定は出来ないが。釈迦の入滅と同じ日、しかも満月のときに花や月を眺めながら死にたいということか。いずれにしても、この歌が予言の歌として的中し、感動をもって後世に語り継がれることになった。


「吾妻鏡に望月太郎登場、三郎は曽我兄弟の仇討ち現場にいた」

話しは変わり、その3年後、建久4年(1193)3月21日、征夷大将軍源頼朝が狩場を見に行くときに、信頼された一族で弓馬に馴れた者22名の供の中に「望月太郎」が選ばれている。この22名だけが弓矢を持てた武術に優れた精鋭であった。これが吾妻鏡の中に見える望月氏の初見である。同年5月、頼朝が富士の巻狩りを催したとき、曽我兄弟(曽我の五郎、十郎)の仇討ちの場面にも望月三郎は遭遇している。

 このとき望月の同族の海野小太郎は切られて傷を負っている。事件のあった晩は雷雨で、暗くて武士達が右往左往している間に切られたらしい。死んだのは仇討ちの相手の工藤祐経(すけつね)ほか2名、傷を負った者は9名。死傷者全員の名が吾妻鏡に記録されているが、望月三郎の名はないので無傷だったようだ。望月氏は吾妻鏡の30箇所ほどに見える。
 望月三郎、海野小太郎もその年8月16日、鶴岡八幡宮での流鏑馬の射手13人に選ばれている。その後も望月三郎重隆は流鏑馬、正月の弓初めなどに射手として活躍し、弓上手と謳われた。騎乗の馬はもちろん望月の駒であろう。「その500年後、松尾芭蕉が、西行の巡った場所を旅する」西行が最後に平泉を訪ねた500年後、正確には源義経が討たれた文治5年(1189)から500年後、元禄2年(1689) 、西行に憧れた松尾芭蕉が、西行と同じ陸奥・出羽へ旅して著したのが「奥の細道」である。その道中の5月2日、 佐藤一族の墓参りのため福島の医王寺を訪ね、寺宝の義経の太刀、弁慶の笈(おい=修験者が背に負う箱)があるのを聞き、次の句を詠んだ。

「笈も太刀も五月に飾れ紙幟」
芭蕉

 医王寺は奥州藤原氏の家臣で当時この地方を治めていた佐藤元治の一族の菩提寺。
 元治の2人の息子、継信と忠信は源義経に従い戦死した。その2人の妻が夫の甲冑を身に付け凱旋し、病床の母を慰めたという。芭蕉はこの話に感涙し句を読んだそうだ。芭蕉は、諸国を旅し自然を友とした西行の生き方に感銘し、心の師として慕っていたと伝えられている

参考資料
「布引山釈尊寺縁起書」 「望月氏の歴史と誇り」
望月政治、 金井重道
共編 「吾妻鏡」
「西行のすべて」
佐藤和彦、樋口州男
編「奥の細道」
松尾芭蕉「ウィキペディア:フリー
百科事典」 「広辞苑


10年間の歩み

◆平成11年 望月城跡草刈整備作業

 旅行者に所在を尋ねられた望月城跡が、藪に覆われ未整備であり無関心であった事に恥ずかしさを感じ、商工会青年部時代の仲間とさっそく草刈作業に取り組んだ。すっきりとした城跡からの眺望が愛しく感じられた。この活動は現在も続けられている。

◆平成12年 望月町 教育委員会主催の「まちづくり講座」

 「学びから始まるまちづくり」がテーマの研修会に参加し、望月の歴史的背景や文化は独自性があり地域活性の重要課題で地域力、意識改革の必要を感じたことから、自立組織「望月まちづくり研究会」発足し、平成15年にNPO法人登録に至った。

◆平成15年 絵馬の制作・和歌の短冊  

 望月を詠う古歌の木製短冊を各戸に飾る。
 絵馬の制作・大伴神社に絵馬掛け設置。平安時代より多くの和歌(約80首)が残されている。

◆平成15年 子育て道祖神祭り

 本町の伝統行事が後継者不足で協力依頼を受け構成を図る。
 本牧区、本牧公民館協賛、協力(総合型クラブ、食育の会、読み聞かせ会、保育園等)。
*各種団体の行事に協賛、(協力関係の拡充)。もちづき総合型クラブや4地区育成会との協働が城跡草刈や、デイキャンプ場作り、ウォーキングコース作りに参加し、新たなまちづくりと引き継がれている。

◆平成15年~ 子供祭り

 地域の子育て、子供に地域を誇りに思ってもらえるよう公民館事業を受託し事業協力している。

◆平成16~平成21年 望月小唄全国祭開催に協力。

望月小唄保存会

◆平成19年 親子ふれあい学級=公民館事業受託

NPO法人望月まちづくり研究会の活動( 年2回)  
 バームクーヘン・ヘビパン作り・そうめん流し・
燻製づくり・忍者遊びといったイベントを実施。

◆平成15年~ 榊祭りのお休み処設置

◆平成17年~ 歴史講座開催(一般公開)

 ・望月氏、中山道の歴史
 ・望月城推定図 「信州の山城」
 ・神話「望月・甲賀・竜神」 

◆平成 天来の流れの書家による看板揮毫

 商工会、まち研、天来記念館   

◆平成19年 書の里散策マップ制作

 長野県地域初元気づくり支援金事業採択による。
NPO未来工房が協賛。看板のガイド、景観作りで観光集客などを目指す。

◆平成19年 温泉浴と森林浴

 布施温泉から城跡一帯のコース整備とイベント開催、県の地域発元気づくり支援金事業に再び採択。
デイキャンプ場整備。ウォーキングコース作り。簾田講師の歴史講座。鷹野講師の植生講座。各種の講座とトン汁やニラせんべいの昼食。望月小唄の歌と踊りの輪が出来るなど楽しむ事が出来た。

◆平成21年 望月城のジオラマ制作

 山城の歴史講座公開。城跡ジオラマ制作発表(支援金事業に採択された)。城跡ウォーク、城跡での歴史講座、歌唱や望月小唄の踊りなど、様々に活用している。

◆平成20年 木馬プランター提案制作

 街中に木馬のプランターが花を添えた。また望月教育プラットホームに協力、望月高校生徒と地域の協働で苗の移植作業をするなど花作り活動を進めた

◆平成21年 御休み処として呉服店「菊屋」をウォーキング途中の休憩の場に活用(宿の縁側)
 真夏でも涼しく、快適と喜ばれた。この日はカキ氷がとても好評だった。

◆平成22年 望月城跡階段設置
 市から材料費が受給され、3カ所に制作した。

◆平成22年度の支援金事業採択「望月探索クイズラリー」
 
「望月探索クイズラリー」用「虎の巻」制作、「探索ツアーと案内人育成事業」用歴史絵巻制作。「望月探索ツアー」の実施。

あとがき

 望月城跡整備を開始してから11年目になります。

  その後、望月宿の至る所に、望月が生んだ近代書道 の祖「比田井天来」先生の門弟にあたる一流の書家 の揮毫による木製看板板が掲げられ、かつての宿場 の活気を偲ばせる景観整備の1つのあり方として、 他の宿場町の模範にもなるなど、宿場に生命を吹き 込むことができました。

 また布施温泉とコラボさせ た温泉浴と森林浴のウォーキングイベントや、私た ちが愛してやまない地域のすばらしい景色をいかし た様々な取り組み……。まだまだ完結することはあ りませんが、一歩一歩着実にさらなる5年、 10 年後 に向かって進んでゆく予定です。  

特定非営利活動法人 望月まちづくり研究会
                   代表 竹内健治