九州にも望月があった  望月修三

きっかけ

 きっかけは、”まち研”の今年度事業計画予定の「クイズラリー」のネタ探しで、石仏の里望月の資料をネットで検索したときです。”石仏 望月”で検索したところ、九州大分県臼杵市望月と臼杵磨崖仏(石仏群)がヒットしたではありませんか。

 信州望月と同じで、臼杵望月の近くにも石仏群があるとは・・・・大変興味をそそられる。 当方、金はないが時間は十分あるので調査を開始した訳です。

実地レポート

平成22年4月17日(土)

 大分自動車道臼杵インターから出て、西南1km位の所にある“望月地区を探索開始。
  望月地域は小高い場所にあり、住宅は数十件あるが望月姓は1軒のみであった。小高いといっても、すぐ横に幅の広い川が並行してあるため、洪水の被害を避けられる程度の高さである。

早速、1軒の望月静憲宅を探し当て、玄関先で聞き込み開始。年の頃は80代。

◆望月氏が言うには、戦前は士族であったこと、佐伯市にも分家があること。 ◆ご先祖が昔、長崎に戦に行き、逃げて帰って来たの、来ないのという話があるとのこと。
◆この地は、昔、”望月村”であったことが判明。ただし、望月の地名の由来は分らないとのこと。
◆望月氏の家紋は天満宮と同じ梅の紋であり、六曜、九曜紋ではなかった。 ◆信州の望月の地について知っていた。
◆彼が部屋の中から古びた掛け軸を取り出してきたので、拝見すると系図であった。その系図の最後の方には、戦に出陣するときに、残された妻子のために、できうる精一杯の行動に出たことや、殿様からの恩賞のことなどが書かれており、370年ほど前に実在していた武士の一面が見える。 系図には、文章に区切りがなく読みにくいので、句読点を私の独断で付けた。各年代が元号表示のため横に西暦年を加えて参考とした。

系図

「天穂日命12代孫、野見宿祢命10代孫、是前公男(男=男子?)右大臣菅原道真公・・・・・・中略・・・・鎌倉郡月陰城主月陰判官照国ノ子孫、信濃国望月城主望月判官照道ノ子、望月相模守道利、※元徳元年(1329)豊後国海部郡臼杵庄字西野原村ニ住ス、地名ヲ望月村ト云、九州太守※大友氏時公ニ仕エ、西心ノ原陣所ヲ定メ、陣屋ノ所、岩屋穴ト云、山崎谷ニ観音寺ヲ立、地名ヲ観音寺ト云、天満宮ノ社殿ヲ立ル、望月但馬守道安、望月大膳太夫道輝・・・・・

 以下望月氏が16人くらい続き・・・望月市六兵エ重朝、島原御陣ノ時、寛永14年(1637)、陣ノ坂ニテ、3百人ノ内ヨリ進ミ出、侍大将後藤市郎右エ門ニ申上、私共、妻子ヲ跡ニ残シ置、若シ打(討?)チ死スレバ、養育スヘキ者ナキ故、御暇ヲ願ヒ候処、直ニ大将ヨリ臼杵城内へ忠臣(注進?)ス。

 依テ、妻子料御下ニ相成ル。○権兵エ、○○○一右エ門、溝口五郎兵エ、品川太兵エ、北野又蔵、望月五市郎進テ、肥前国島原一揆天草城へ楼上、寛永15年(1638)ニ諸大名アツメ天草城ヲ攻メ落ス。

 臼杵城ニテ寅3月19日(稲葉)信通公ヨリ御恩賞ヲ賜フ、溝口五郎兵エハ二百石、品川太兵エ百石ヲ給フ、北野又蔵ハ二拾石御引揚ゲニテ御持筒(抱え大筒か?)小頭ト成、芝崎氏ノ組ニ入ル、望月五市郎、御徒士(おかち=殿様の警護隊)ト成、名ヲ市六兵エ云(改名?) 」 (注釈) ※元徳元年(1329)、この時代の天皇は後醍醐天皇。

 鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。 鎌倉時代末期である。 ※大友氏時(? – 1368)は南北時代(1333~1392)の守護大名。大友氏の第8代当主。 ※中央行あたりに望月市六兵エ重朝とあるが、エの表記は衛の略記と思われる。以下の行にても同様。

考察


 系図の初めの項に、信州望月氏の祖である滋野氏が出ていないのが気になるが、信濃国望月城主望月判官照道がでてきたので非常に驚く。その子の道利が鎌倉時代末期に豊後の国、臼杵庄望月に住むとある。

  信州望月氏は鎌倉幕府の御家人であり、また、大友氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(大分県)を根拠にした一族である。
 豊後、筑前、筑後など北九州を支配した守護職、守護大名。戦国時代には豊後の戦国大名に成長するが、豊臣政権下に改易。 信州望月氏の末裔と思われる臼杵望月氏が、海沿いの鎌倉郡から大友氏を頼って臼杵庄に移り住んで、その場所が“望月”になったのではないか?

 家紋が梅の紋ということであるが、臼杵望月氏が“望月の地”に天満宮を建てたことに関係しているのでは?天満宮の神紋は梅の花である。望月氏が縁起の良い梅紋としたのか?

 島原の乱の戦に、出陣のとき、臼杵望月氏が万一討ち死にした場合、残された妻子のための養育料を殿様から支給してもらおうと、侍大将に掛け合った交渉力は中々のものではある。
 
 望月静憲氏が言うような、ご先祖が戦から逃げて帰ったのではないと思われる。それが証拠に、最後に恩賞をもらい御徒士となると系図に書かれている。 系図は1638年の出来事で終わっている。
 
 結局、この系図のいわんとしていることは、臼杵望月一族の望月市六兵衛重朝が島原の乱の戦に出陣し、見事戦って来て、殿様より恩賞をもらったという顛末を、望月市六兵衛重朝本人が書いたものではないでしょうか? 泰平な江戸時代においては、このような戦は望月一族にとっては、最後のものとなったため、子々孫々に伝え残すために書いたのではないでしょうか。

平成22年4月20日                                    NPO法人 望月まちづくり研究会 福岡支局 望月修三


写真レポート(写真は後で載せる予定)


大分県臼杵市望月地区の範囲 (立石山の上から撮影)



望月入り口看板 望月公民館(使用するときに区長から鍵を借用するとのこと)




同 上





望月静憲 邸




同 上



望月地区において望月姓は1軒のみの当主、望月静憲氏と訪問者の私(望月修三)

望月天満社 (系図には昔望月氏が建立したと記されている。古い雰囲気である) 望月地区から約1km南の場所にある、満月寺(まんがつじ) 住職は不在のようである。



 満月寺の隣にある有名な臼杵石仏群(国宝 磨崖仏)。




 平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫られたといわれている。臼杵磨崖仏四群59体が、国宝に指定されている。よそから運んできたものではなく、山の岩肌(凝灰岩)を彫りだしたものである。岩の中にも仏様がおられるということか。人は死しても、時代を超えて偉大な永遠の心をそこに残していますね。ものすごい一念を感じます。 地元の真名長者のもとで石仏を彫ったといわれる人物が、満月寺の蓮城法師である。 。