望月宿   

本ページは主に脇本陣鷹野氏寄稿による

中仙道 江戸から25番目の宿場町

 徳川家康の命により、五街道が整備されました。

@ 東海道(江戸〜京都まで 53宿)
A 中仙道(江戸〜京都まで 69宿 望月宿は江戸から25番目の宿)佐久市には・岩村田・塩名田・八幡・望月の4宿と茂田井に合いの宿があった。
B 日光街道(江戸〜日光まで 23宿)
C 甲州街道(江戸→山梨県 甲府宿→下諏訪宿まで 38宿)
D 奥州街道(江戸〜福島県の白川まで 27宿)

そのうち、江戸から北上、群馬から碓氷峠を通って北国街道と別れて、諏訪木曽、を経由して京都に通じているのが中仙道六十九次。

その中山道の江戸から数えて25番目の宿場町が望月です。

望月宿のはじまり

 ・慶長5年(1600 413年前)徳川家康の命令で、この地に居住していた郷士(郷村に居住し農業を営んだ武士)大森久左衛門吉国が、作畑、樋ノ口(小宮近辺)金井原(金井町近辺)・松岸平(吹上町近辺)に居住していた人々を今の地に集めて望月宿を作った。
 (久左衛門吉国は庄屋・本陣・問屋の三役を拝命した。)

 ・本陣1軒 ・脇本陣1軒 ・問屋3軒 ・旅籠24軒

 ※ 寛政12年(1、800年)の「分限絵図御用宿方書上帖」による、望月宿と新町の家数等。

 望月宿(本町)108軒 457人 新町34軒 135人
       計 142軒 592人(男304人 女288人)

 ・宿場は、大名・公家・旅人等の宿泊や荷物の運搬等を円滑に行うために作られた。

望月宿に問屋が3軒となった理由

 7代目大森久左衛門(大森家としては19代)が、天命元年(1、781年)〜文化2年(1、805年)の20年間、軽井沢宿から和田宿までの11宿の取締役を命ぜられた。

 また、9代目久左衛門は嘉永4年(1851年)軽井沢宿からも本山宿までの15宿

( 1軽井沢宿 2沓掛宿 3追分宿 4小田井宿 5岩村田宿 6塩名田宿 7八幡宿 8望月宿 9芦田宿 10長窪宿 11和田宿 12下諏訪宿 
13塩尻宿 14洗馬宿 15本山宿)

の取締役を勤め、種々の訴願のため出府をよぎなくされ、問屋一人勤めが難儀となったので、年寄り役の半兵衛(脇本陣、鷹野家)と信七(やまと屋、真山家)が問屋役を申し付けられ、安政2年(1、855年)まで合役勤めとなった。

江戸時代の絵図

望月宿の絵図が残っていました。

今度、写しをもらってきます。



       




wikipediaより

現在の長野県佐久市望月にあたる。

平安時代からこの地を収めていた豪族望月氏の姓や、その望月氏が朝廷や幕府に献上していたの名産地として蓼科山裾野の「望月の牧」から、「望月」の名が付いたとも言われる。

(なお、望月氏の由来は、望月の牧からであり、望月の牧の由来は、一族が毎年旧暦8月15日の満月の日(望月)に馬を朝廷や幕府に献上していた為である。)