望月氏と望月の牧

あらすじ

 鹿曲川(かくまがわ)と布施川、それに千曲川とに囲まれた東西5km、南北5kmの御牧原台地は、古代から中世にかけて、御牧=すなわち朝廷の左右馬寮(さうめりょう)に属する御料(ごりょう)牧場でした。
 
 文武天皇4年(700年)に「諸国ヲシテ牧地ヲ定メ、牛馬ヲ放牧セシム」と続日本紀という本にかかれていることからすでにこの頃、御牧原台地では馬が飼育され始めたのではないかと思われます。しかし、いつ頃に御料牧場(勅使牧ちょくしまき)になったかは明らかではありません。

 奈良時代を経て、平安時代になると勅使牧のことがいくつもの文献に載せられており、馬の飼育のことや、宮廷における行事などについても様子がよくわかるようになっていきます。

 勅使牧が望月牧といわれるようになったのは、天皇が当地の駒(馬のこと)を毎年ご覧になる儀式は8月29日でありました。貞観7年(865年)になって8月15日の満月の日に改めました。
 「望月」とは満月を指し、全国でも有数の貢馬を最も多く献上する御牧原御料牧場を「望月牧」といい、ここから生産される馬を「望月駒」(もちづきのこま)と呼ぶようになりました。
 
 さらに、望月牧の管理をしていた豪族を「望月氏」(もちづきし)というようになり、平安時代末期には武士団へと台頭し、戦国時代末期まで強力な氏族として活躍をしています。

 さて、駒を望月から京都に運ぶには15日かかるといわれています。望月を出発し、古東山道(ことうさんどう)に沿って蓼科山(たてしなやま)を南に眺めながら雨境峠(あまざかいとうげ)を通り、杖突峠(つえつきとうげ)と抜けて天竜川沿いに下り、袖坂峠(そでさかとうげ)を超えて木曾に出るのは3日目のことです。


  駒曳(こまひき)の木曾に出るらん 三日の月

 
 京都に到着する日は、左右馬寮(さうめりょう)の頭(かしら)や宮廷の役人が逢坂(おおさか)の関(せき)まで出迎えることになっており、これを「駒迎(こまむかえ)」といいます。

 

逢坂(おうさか)

(せき)清水(しみず)(かげ)()えて

いまや()くらんの望月(もちづき)(こま)

貫之


 到着した駒は紫宸殿(ししんでん)に出御(しゅつぎょ)した天皇の前に一頭ずつ曳き出され、天皇がご覧になる儀式が行われました。これを「駒曳(こまひき)といいます。

 もっとも盛んであった平安時代には、信濃には16の牧があり、献上頭数は80頭で、このうち望月牧からは20頭を献上していました。

 栄華を誇った全国有数の望月の牧は、鎌倉時代末期の文献を最後には見られなくなることから、この頃衰退してしまったものと思われます。

望月氏の滅亡    (脇本陣鷹野氏寄稿)

 天文12年(1,543年)前後に望月は武田の勢力圏となる。

 武田信玄の弟典厩信繁の次男「義勝」を,(母「尾上」は17代大森忠次郎利方の娘) 望月氏 (右近義一)の養子として望月氏を名のらせ部下を望月城下に居住させた。

 天文16年頃には、佐久全郡が武田の手中に帰した。        天正3年(1,575年)長篠の戦いで、望月城主義勝・同族の望月甚八郎重氏,伴に戦死。
 後を望月昌頼が望月城主となる。
 
 天正10年(1,582年)武田勝頼が自刃し武田家は滅亡する。

 天正10年10月10日,家康の命をうけた依田信蕃(芦田城主)に攻撃され敗れ落城、城主望月相模守昌頼,10名の家臣に守られて同族の真田氏(上田)を頼って落ちていく。

 途中、大屋の黒坪で土民一揆に包囲され、従者の奮戦も及ばず自刃し、望月氏は滅亡する。 〔共に討ち死にした家臣 ・大森左京介(望月宿を開いた久左衛門吉國の父)  ・布下安房守 ・篠沢上野介 ・矢川左近 ・矢川仁右衛門 ・栗川源太 ・塩原半兵衛 ・岩井文六  ・野田采女 ・矢嶋平内 〕

 天正11年依田信蕃は岩尾城攻撃時に鉄砲で撃たれ戦死(36歳) 徳川家康は,信蕃の子竹福丸(14歳)を元服させ,松平姓と康の字を与え,松平康国と名のらせ,小諸 6万石の城主とした。

 康国は,天正18年(1,590年)上州石倉城(前橋市)を陥落させ,城受け取りの際,伏兵に襲われ謀殺される。(21歳) 弟の康真が後を継ぐが,すぐに上州藤岡へ転封となる。

 家康の供でおもむいた大阪の宿舎で,囲碁の勝負の後,悪口雑言を吐いた直参旗本の小栗三助を斬り殺し,領地没収,高野山に蟄居。

 その後越前の松平秀康に仕え、5千石を給せられたが,徳川家に遠慮して姓を芦田宗月と名乗り後に7千石を給せられ明治に到る。

 康真が領地を没収されたとき,その一族と家臣団は故郷の佐久に帰った。そのため佐久に依田姓を名乗る者が多い。

 春日地区にあるの康国寺は,康真が兄康国の菩提を弔うために建立した寺院である。